師の求めたるところ

前回、技を盗むこと、真似ることについて触れた。今回は、少し先の話である。

武道において「師を跡を求めず、師の求めたるところを求めよ」という言葉がある。出典は松尾芭蕉の『許六離別詞(柴門辞)』の「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」とされ、それは空海の残した言葉に遡ると言われる。

若い時はその意味が分からなかった。ひたすら師の真似をしようと必死であったし、それが弟子としての喜びであった。修行を進めるにつれ、この言葉の深さを思うことが多くなった。少しずつ、また少しずつ、師は何を一体目指し何を追い求めていたのかということに思いを馳せるようになった。そうせざるを得なくなったという方が正しい。表に顕れた、目に見える形だけを真似ようとしても、決して近づけないことに気づいたからである。

武道ではまた「守破離」という言葉がよく使われる。もとは千利休の教えを示した『利休道歌』の「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」とされる。とかく「破」や「離」に目が行きがちだが、この言葉の主眼は「守」にあると私は思う。徹頭徹尾、守りに守るのである。その行き着く先に、もしかすると自然に殻が破れ、巣立ち離れる時が来るのかもしれない。あるいは来ないのかもしれない。そして、守るべきは、師の技や教えだけではなく、師の心であろう。それは「師の求めたるところ」であろう。

師弟の絆とは、簡単に表には顕れることがない、奥深いところに流れる敬愛と慈愛ではないかと感じる。一心に修行していると、ほんのたまに師の眼差しの奥にそれが垣間見える時がある。それだけでよい。

大東流合気柔術副本部長・世田谷支部長
臼山秀遠